「信じる」と「許容」

とても過ごしやすい秋の気候になったかと思えば、あっという間に寒さが襲い掛かってきた今日この頃。みなさまいかがお過ごしでしょうか。

こちらは部屋の上階の住人が引越し、部屋の改装が行われてるようで、昼頃から「ギュオオオオオン!!!」というドリルの音が鳴り響くことで苛立ちを募らせています。

この時間なら下の階の人はいないっしょ~。という想像のもとに行われているのかもしれないが、こちとら万年引きこもりなのだよ。ちくしょう。

 

あとはずっと小説を読んでますね。朝井リョウさんの「スター」、町田そのこさんの「52ヘルツのクジラたち」、凪良ゆうさんの「滅びの前のシャングリラ」どれも数年に一回出るかというほどの激ヤバ小説で、今年の豊作具合にびっくりしてます。

 

更にPSVRを購入し専用ゲームをやってたりするのですが、これはもうまじで未来。全くの新体験過ぎていちいち「す……すげえ」とかぶつぶつ言いながら楽しんでいます。

 

閑話休題

 

さて、最近はよく「信じる」ということについて考えているのですが、結論として言えば人間は自分の信じたいことしか信じないと思ってます。

例えば、恋人のことを信じたいけど信じられない……。という悩みは遥か昔の平安時代から言われていることなんですが(人間の心って変わらないね!)、それを言っている時点で既に心は「信じない」という方向に舵を取ろうとしているんですよね。

ただ、「ここで彼/彼女を信じないということは、今までの自分を否定することなのでは?」という葛藤が介在してきます。

そうなると「自分を信じるために他者を信じよう」というねじれが発生してしまい、何が正しいのか正しくないのか分からなくなってしまい、「人を信じられないなんて、人間として間違ってるよね!」という名もなき人間たちが作り上げたイメージに流されてしまうわけです。

 

また、「信じる」という行為には「裏切られた時の心のダメージを受け止める覚悟」というものが求められます。

傷つくリスクがあるからには、この人のことを信じ「なければいけない」という強迫観念に捉われている人たちのこともよく目にします。

何度も裏切られても尚、同じ対象を心のよりどころにすることもよくありますが、それはただの執着や依存の成れの果てであり、もはや「信じる」ことからはかけ離れてしまっていると言えるでしょう。

 

そもそも人間が完全に分かり合うということは、不可能なのですが、それでも尚、他者を信じたいと言うならば、部分部分で信じるしかないのだと思います。

「こういうところは信じられないけど、ここは信じられるから、合計すると信じられるかな……」という具合に。

「全部、どんなことも信じる!」という手放しの信頼というものは、基本的に幼い子供が親に対して抱くものしかあり得ません。

人は成長するに従い様々なことを学び、傷つきながらも学習するので、どんなことなら許容できるのか。という判定基準を心の中に持っておくべきでしょう。

 

つまるところ、「信じる」とは「許容」ということなのだと思います。

僕個人の話で言えば裏切られたとしても「きっと何か理由があったのだろう」と自分自身が納得できるような人でなければ決して信頼しないようにはしています。

仮に裏切られたとしてもそのことに対して「なんであんなやつを信じてしまったんだ……!」と後悔することもありません。ただ「そういうことだ」と思うだけです。

 

最近、芦田愛菜さんが「裏切られたというけれど、その人が裏切ったというわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたとき『それもその人なんだ』と受け止める、が信じる事と思いました」

ということも言っていましたし、考え方として本当に素晴らしいものだと思います。

 

誰を信じ、誰を信じないかは完全に個人の自由ですが、それに伴って発生する責任については、決して他人のせいにせず、自分の中で解決したいものですね。

また、自分が信じるものを、誰かに決めさせてしまうのも絶対に良くないですよ。

(まー、僕がそうできているかって言うと割と微妙なんだけど、それはまあいいじゃん。あと、文章中では言い切ってるけど、別に僕は自分の意見が正しいとは思ってないよ。世の中にはいろんな考え方があるので)

 

という今日のお話でした。

次回のテーマは「フェア」と「一貫」でーす。

 

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銀河鉄道の夜 / 不可思議/wonderboy